救う会神奈川では現在ボランティアを募集しています。街頭でのビラ配りや市民集会の手伝い、ホームページの管理等が出来る方は是非メールでご連絡下さい。
   
【連絡先】
神奈川県藤沢市藤沢1031小島ビル2階

藤沢市市民活動推進センタ− レタ−ケ−ス1-20
北朝鮮に拉致された日本人を救う神奈川の会気付
電話:090-9816-2187
   

第9回「拉致被害者と家族の人権を考える市民集会」

日時:平成17年1月15日 
場所:神奈川県藤沢産業センター
主催:拉致被害者と家族の人権を考える湘南の会実行委員会
共催:北朝鮮に拉致された日本人を救う神奈川の会

参加:有本明弘さん (有本恵子さんの父)
   有本嘉代子さん(有本恵子さんの母
   萩原遼さん  (北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会・名誉代表)
   斎藤健兒さん(北朝鮮による拉致・人権問題にとりくむ法律家の会)
   松木信宏さん
   高野美幸さん
   大澤茂樹さん





有本明弘氏

えー、皆様、足下の悪い中、大勢お集まり頂きまして有り難うございます。拉致家族の有本明弘です。宜しくお願いします。私がこの拉致の問題に関わりましたのは1988年、だから今からざっと17年前になるんです。子供の手紙が北海道の方に来まして、それを基に政府の方に救済をお願いしてきました。そして7年、8年間は誰も、えー、助けてくれる人はおりませんでした。そうした中でやっと、マスコミの方に一人、協力してくれる人がおりまして、その人の協力という事によって、横田めぐみさんの件もその人が韓国へ行って発掘して来て明らかになって、そして家族会というのが結成しました。家族会が出来て約7年目(8年目)になっております。そうした中で、7年になって、家族会が出来た時点からマスコミ各社はそれぞれパラパラパラパラ、この問題に参入して来て、で、小泉さんの訪朝で5人の子供が帰って来、また、2度目の訪朝で孫達が帰って来、その結果、小泉さんの外交姿勢が余りにおかしいので、経済制裁をしてくれという風な話が今、盛り上がっております。で、この、今私が皆さんに申し上げたいのは、何でこれ、17年間もの長い間、年月を費やして今の状態が出来上がって来たのか、そういう事を、時間が、まあ短く30分以内と限定されておりますので、その範囲内で、中途半端ではあるかも知れませんが、皆さん方に、皆さん方の全然知らない、マスコミが報道しない、こういう問題を皆様に知って頂いたら今の日本の現状もお分かりになると思いますので、そういうところから話を始めたいと思います。と言いますのは、この問題に関しては政治も全然やる気がなかった。’88年には手紙によって政府の側に救済をお願いした。その手紙を持って行った先が、えーと、安倍さん、安倍晋三さん、このお父さんのところ。そういう関係上、安倍さんがかなりこの問題に関して親身になってやってくれています。で、そういう結果、こういう状況が生まれて来ました。それで、今一番問題になっている事から申し上げたいのですが、日本のマスコミ、これが日本の国を(聴き取れず)している。マスコミがしっかりしておれば、これ17年間も掛かっておらない、金丸さんが逮捕された時点でこの問題がかなりの大きな、国民にインパクトを与えておった。ちょっとこういう風な解釈をしております。えー、そういう事の中で、マスコミは自分の悪いところは絶対に報じない。これも報道各社全部が、声を合わせた様に、談合したかの様に日本の大手20数社、これがこの問題に関して一ッ言も協力しない。これが当時の状況だったんです。報道の自由いうのはどういうものなのか、談合して皆これを報じないのが報道の自由なのか。今、NHKの事がかなり厳しく言われております。そういう中で中川さん、安倍さんがマスコミに圧力を掛けたという報道を、グーンとかなり大きく出して来ました。マスコミというものは皆さんが思っている様なもんじゃなくて、マスコミの本心は何なのか、当時の事をずーっと、私らはマスコミが報道してるその裏の事情を知ってる。とんでもない、もう北寄りの姿勢でずーっとマスコミはやって来た。そこで政府へも、監督官庁へも物を言うて行って、それを行政指導して貰いたいと、そこまで言っている。でも、マスコミいうものは、マスコミの法律があるらしく、マスコミに政治権力、国権が関与する事は禁じられているらしい。それなら、このマスコミの横暴な振る舞い、偏った振る舞い、これは誰が制裁するのか。ここへ来るんです。

民放は視聴率第一主義で走ってる。スポンサーの思いのままに。だから民放は、国民は物言えない。だが、このマスコミには言える。お金払ってるんだから。こういう権利を国民は持っているんです。だから今、十何万か、いっていますが、このマスコミ、NHKがおかしいという事が皆さん分かったら、10人に何人かの人がカネ払わんとなったら、これ一気にこう、不安定になるんです、これ。10万どころか2,000万3,000万の人が払わんとなったら、これ一気に政治問題化するんです、これ。NHKの海老沢会長が辞める、そんな問題じゃないんです、これ。中におる、そこそこの役職の人間、全員もう総入れ替えせないけない様な組織なんです、これは。これは国民が制裁出来る、これ1社しかないんです。で、他の民放、沢山ある、これは制裁出来ない。スポンサーの(聴き取れず)問題であって、スポンサーは物言えるけど国民は物言えない。NHKは、国民は物言える。制裁権を持っている。そういう事も皆さん、知っていて頂きたい。(聴き取れず)このマスコミを改革しなければ政治は改革出来ないんです、これ。我々は運動して来た。何百人単位の所でも話して来た。月に何回かそういう事をやっても、国民の全員には浸透しない。それもその、長年運動して来てよく分かっております。マスコミが全国的に報道してこそ、国民の皆様は分かってくれる。そういう様な政治状況の中で、この日本のおかしな政治を正しくするのは、マスコミがするしかないんです、これ。どうも日本のマスコミは、今言った様な状況で、民放はそういう事で、スポンサーの意に沿った様な視聴率第一主義で行くしかない。そういう様な状況の中で、このNHKだけはもっとしっかり国民の側に立った、そういう放送をして頂きたいし、政治がおかしければ、これはおかしいやないかと、解説委員も沢山おるんやから、そういう解説をして行ったならば、政治は、曲がった政治は出来ないんです。指摘すると、おかしいでしょ、これ。この朝鮮の事に関しては、与党野党全部、同んなじ考えかどうかは知りませんが(聴き取れず)アメリカの事だったら言うでしょ、政党は、野党は。イラク派兵反対やと。朝鮮、拉致されてる、政党の中でこの問題を言うた政党、取り上げた政党はただの1つもないんですよ。皆、個人がそれぞれ拉致議連に入って来て物言うてる。これが今の日本の政治の状況なんです。だから、これは何でこういう事になったか。戦後60年間の間にこういう事になったんです。これは朝鮮総連、この朝鮮総連がごっつう肥大化した。全国的な組織を持ってる。そして向こうの、北朝鮮の指導の下にこれが動いている。これを日本の国は容認して来た。その中に於て政治は全部、この朝鮮総連によって工作されてしまった。これは、「何でお前、そんな事が言える。証拠あるか」と言うけれども、これは証拠はなくっても結果が証拠なんです、これ。結果が証拠なんです。で、朝鮮総連の幹部で、もう亡くなりましたが、2冊本を書いております。で、どういう事を言ってるか。1千万円1億出したら、手を出さない人はおらない。そこまで本に書いてる。で、坂東武者の風格のある先生までそれをポケットに入れたと、そういう様な本を書いて(聴き取れず)、亡くなりました。それから、そういう国民が信頼している、そんな先生までお金を貰ってた、という事は、もう古い政治家は殆どやられたと解釈していいんです。と言うのは、この北朝鮮に厳しく迫る人はおらんでしょ、古い人で。この、拉致議連をされてる先生方、安倍さん、3回生くらいですか、金丸さんが逮捕されて以降当選された先生方は汚染がないから、自由に、自分の意見でこの問題に入って来て制裁法案をこさえてくれた。これは有り難いけれども、そういう様な状況なんです。だからもう、今の日本の状況が、今私が言った様な状況で、この北朝鮮に厳しく迫れない政治状況だという事を知って頂きたい。

それと、どうもNHKがおかしいという事に対しまして、私が当時(平成11年)、運動をしていて監督官庁へ「これはおかしい。だから行政指導をして頂きたい」と要請に行きました。そこで、その文章をちょっと今ここで、原文のまま皆さんにお知らせします。

(この後、手紙を読み上げながらの状況説明が続きます。ここは聞き取れない部分が多く、内容は有本嘉代子さんの著書『恵子は必ず生きています』70頁〜98頁に記載のものと大部分が重複しますので、申し訳ありませんが割愛させて頂きます)

…と、こういう様に上申書を添えて、手紙と一緒に、監督官庁へ行政指導をして貰いたいと要請しました。返事は、どういう返事があったと思いますか?「違った報道をしている、それならば私達も物が言える」そう言うんです。そして何も言わん、これ報道していない事ですね、「報道していない事に対しては、私共がああしろこうしろとは言えないんです」そういう様な返事なんです、これ、監督官庁が。皆さん、どうお思いですか?それは(聴き取れず)逃げ口だと思うんですが、向こうの返事はそうなんです。(聴き取れず)『正論』の、産経新聞『正論』ありますね、『正論』の次長、それともう一人、問題に関わって来た石高さん、報道関係の人。『朝日』に生活する人ですね、『朝日新聞』、えらい人気悪い、その中で生活してる人なんです。その人も一緒にいた。私がそういう事を言って来たという事を知ってる。その人が言うには、「政治権力、国家権力がメディアに介入するというのは、これはもう絶対阻止せないかん問題や」と、メディア側としてはね。そういうんです。「そしたら、こういう問題を誰が提起して(聴き取れず)追及するんだ?」と言ったら、言葉がないんですよ。誰が追及するんだと。だから、石高さんの弁は「これはメディア全体が考えねばならない問題だ」と、まあそういう様な答えでした。「メディア全体が考えなければ」、それはそうでしょう。それには誰かが問題を提起しなければならない。そしたらメディア全体は考える。ところが、隠蔽されたままではメディアは考える材料がないんです、これ。これは十何年前の出来事なんです。あの世界は、3年4年でコロコロコロコロ、記者が、現場の記者が替わるんです。上層部の人がどのくらいの割で替わるか私は知りませんが。だから、この日本のマスコミ、社会、日本のマスコミ全体、大きな汚点を残した。十何年前に大きな汚点がある。これをずーっと引き摺っているんです。そういう事も皆さん、知って頂きたい。そしてこの、日本の国の状況を正して行くのは、どうしたら正せるのか、政治を良くするにはどうするのか。矢張り、国民はそういう認識の上に立って、マスコミを改革する、これが一番の早道であると私らはそういう風に思って、ずっと運動しております。まずは政治を正さなければいけない。でも政治を正すのは、我々は選挙でしか出来ないんですよ、何年かに一遍の。これでは間に合わんのです。(聴き取れず)もう時間も十分超過してしまいましたので、これで終わらせて頂きます。有り難うございました。(ページトップへ

 

有本嘉世子さん

皆さん、こんにちは。神戸から参りました、有本恵子の母親でございます。先程、主人が本当に物凄く時間を超過しましたので、(会場笑)私からは簡単に申し上げますけれども、本当にもう、一言で言いましたら、あの、この問題は矢張り(時間が)掛かり過ぎております。私ども(有本家)が運動を始めて、今年で17年になります。今もしっかり憶えてますけれども、横田めぐみさんが、表に出て来られた時に早紀江さんが仰ったんですね。「本当にあの、めぐみがね、20年間、北朝鮮で元気で暮らしているのに、私達が表に出る事によってめぐみにもしもの事があったらと思って、本当に悩んだんですよ」と仰いました。本当にもうあの、私も同んなじ様な思いで出ましたのでよく解りました。それと、こないだ3回目の交渉で、めぐみさんの写真が出て来ましたね。あの3枚の写真を、あの、まだ幼かった制服を着た写真を見た時に、もう胸がいっぱいになって、本当にもう悲しい事を一生懸命に辛抱しているあの写真を見ました時に、本当にどうしても恵子と、矢張り、めぐみさんとが重なり合いますし、めぐみさんが、ただあの時に13歳だったいう歳を考えますと、どんなに長い間、船底で、本当に「お母さん、お母さん」と泣き叫んで、あの、爪が剥がれかかったというんですね。だからその事を、横田さんが聞かれた時にどんな思いをされただろうと思いましたらね、母親として胸がいっぱいになるんです。とにかくこの、家族としまして、本当にこの長い間、苦しんでまいりました。やっと一昨年、その前になりますね、総理が行かれてから本当に日本の皆様方が私達の事に感心を持って下さいまして、(地村保志さん達の帰国以後に)一番最初に開きました、あの、有楽町フォーラム(東京国際フォーラム)で全国大会をしました時に、本当にあの会場に、6,000人ほど入るそこに1万人以上の方が来られて、入れない方は、あの時は石原都知事も来て下さいました、横田早紀江さんとか、表に出て皆さんに、「中に入って頂けなくて申し訳ないです」と何度も断わっていた、私はいなかったんですが、その時に皆さんは「いや、ここまで来ただけでいいですよ。皆さんがそこで、表に出て来て下さって一言挨拶をして下さるだけで、私達はもう本当に、それで満足して帰れますよ」って励まして下さったいう事は、後で早紀江さんに聞きましたけれども、本当にあの時に私は胸がいっぱいになりました。もうあの会場に、本当にギッシリと皆さんが詰め掛けて下さったのを見まして、本当に私は、日本人が元の日本人に返ったなと私、思いました。この拉致問題、本当に大勢の子供達が長い間、辛抱して、5人の方が帰って来られました。本当に辛い思いをしましたけれども、あの子供達が、この日本の国を変えてくれたなと私は思っております。本当にあの、日本人は矢張り、私は日本に生まれたいう事をずっと誇りに思って暮らしておりましたから、その事を本当につくづく、思い知らされました。

本当にこれからいつまで掛かるか分からないです。で、私達もその、私どももその、家族会に入りましたけれども、その時点では国は拉致家族であるという事を認めておりませんでした。皆様もご承知の通り、よど号達からの、よど号の奥さん達が、私達の子供をヨーロッパから連れて入ったんですけれども、あの時点で日本人獲得作戦を、よど号の奥さん達がしたそうです。それで北海道の方、私の娘、20人くらいは連れて入ったと、田宮さんは仰ったそうです。あの、田宮さんは「これはいけない」とその時は思われたそうです。だからあの、高沢さんて、『宿命』という本を書いた方が北朝鮮に行かれた時に、田宮さんとかなり親しくしてらして、その時に「『私達の手で20人は連れて入っておりますので、これはどうしても私がここにおる間に、この20人だけはどうしても日本の国に帰す様にしないといけない』という事は田宮さんが言うてましたよ」いう事を、あの、丁度あの、震災の年でした、初めて訪ねて来られて、そういう事を私は聞いております。だからあの、私どもの、ヨーロッパから入った人間は、国としては長い間認めてなかったんです。だから家族会として運動をしながら、初めてあの、八尾恵さんが、皆さんご承知かと思うんですけれども、(聴き取れず)法廷で証言して、これで初めてその、それが3月12日でした。2002年の3月12日に証言して、その前日の11日に初めて拉致であるいう事を国が認めたんです。だから、どういう具合でその、国が認めるのか、そこんとこが分からないんですけれども、あの、今も来てらっしゃいますけど特定失踪者の(ご家族の)方、この方達は本当に不安な思いで今、過ごしてらっしゃると思うんです。だからこの特定失踪者の何百人だか分からない人、それからいま国が言ってます、あの、10人て言うてますけれども、皆これ拉致されて、同んなじ日本人なんです。だから皆が帰れないと、この拉致問題は、私は解決しないといつも思っております。だからこの問題は、自分の子供だけが帰って来ていいという様な問題ではないという事は、早い時期からもう私は認識しておりますので、この特定失踪者の人が全部、この日本の国の土を踏むまではこの拉致解決には結び付かないと思っておりますので、どうかあの、いま本当に、政治家の方も本当に一部の方です、で、外務省も、ずーっと見てましたら、一生懸命にして下さる方は本当に数える程しかいないなという様な感覚で見ております。でもあの、一番変わって下さったのは日本の国民の皆様方です。だからあの、この間も手紙に書いて下さった方がいるんですけれども、「お母さん、いつも皆さんに、『とにかく忘れないで下さい』とか『とにかく風化させないで下さい』と言う事よりも、『皆さん、一緒に頑張って下さい』いう事を皆さんに訴えた方がいいよ」って手紙で言って下さった方がいるんです。だからこの日本の国を直す為に、皆さんが一緒に頑張って、この拉致された子供達が帰って来るまで、どうぞ皆さん、関心を持ち続けて頂く様、お願い致します。有り難うございました。(会場拍手)(ページトップへ

 

萩原遼氏

萩原遼(はぎわら りょう)と申します。拉致の集会では殆ど私は出て、あの、参加した事がありませんので、萩原は何か拉致にちょっと(聴き取れず)があるんじゃないかと。或はその、色んな北朝鮮関係の団体の中でその、仲が悪いんじゃないかと、ていう様な事が噂として言われるんですが、全ッ然そんな事はありません。私は、拉致は家族会が結成される以前から、これは大問題だという事は私、ずーっと考えておりました。ただあの、仕事柄、ずっと私は共産党の赤旗の記者をやっておりましたので、表向いて出来ないんです、それは。色んなしがらみ、政治のしがらみがありましてそれは出来ません。出来ないけれども、「拉致は北朝鮮がやったという風な事は考えられない。萩原さん、ピョンヤンでもいたんだから、どう思うか」と、私はその時は個人的には「やった可能性、大いにあり」と最初から言っているんです、一貫して。彼らがやっていないなんて事はあり得ないと、やった可能性の方が強いという事はずっと考えてまいりまして、それでまああの、えーと、’89年から共産党のドンと言われた宮本顕治さんていうの御存知でしょうか?あの方が議長をやっておられた訳ですけれども、私とちょっと折り合いが悪くなって、私をある所に、まあ世間で言う配置転換をして、それを私が理由を聞いたら「理由は言えない」と言うから、「理由の言えない配置転換なんてあり得ない。そんなの受けられん」と、即刻、言下に拒否してそして辞めまして、フリーになりまして、この道16年になりますが、その間ずっとあの、この拉致の問題も考え続けながら私はやってまいりました。しかし直接には、本当に皆さんの前で立ちましたのは今回が初めてなんです。まあそういう点であの、救う会の神奈川の皆さん方、それを支えていらっしゃる皆さん方のこの熱意に、僕はこの藤沢の駅を降りた時、みぞれ交じりの雨の中で若い方がマイクで呼び掛けておられるのを耳にした時に、何か身が引き締まる様な思いがしまして。私もこう、老人と言われる様になりましたけれど、何か背筋がシャンとする様なそんな思いがしまして、皆さん方の今日の御力、こういう集会をね、持たれた皆さん方の熱意とそれから行動力とそれから、決して若い方ばかりとは申せません、こう拝見しますと。そういう方々の頑張りに私も生かされている、私も励まされている、そして前に背中を押して頂いている、そういう事で大変有り難く思っております。今後とも私は、あの、ちょっと脇の方で仕事は進めておりますが、目標はあのキンショウニチ政権を早く打倒して、そして拉致された人達を全員取り返す、生きたまま取り返す、更にそれに止まらずに、私が名誉代表として関わっております「北朝鮮帰国者の生命(いのち)と人権を守る会」ていうのがございますが、これは、45年前に憧れの王道楽土・地上の楽園と宣伝された北朝鮮を目指して在日の朝鮮、コリアンの方が大挙10万人も帰国なさいました。その中に6千人の日本人妻とその子供達がいます。そういう方々ももうこの45年、閉じ込められたまま。宣伝になるほんの一握りの5人とか10人を里帰りと称して帰しては政治宣伝ばかりやらせる。ふざけるんじゃないと。だいたいその、里帰りというのは1年か2年に1回は全員にですね、全員に認めるべきなんですよね。何故認めない。そしてそれも今、もう2世3世4世の時代になりまして、あの当時二十歳で行った方も、もう65のお爺さんお婆さん。その孫達は、子供達や孫はお父さんの国を見たい、お母さんの国を見たい、それから孫は、お母さんの生まれた所を私も行ってみたい、当たり前ですよね。何故そんな当たり前の事を認めないのかという事で、私達は10年前、もう11年前になりますが、今申しました「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」というのを立ち上げまして、まあこちらの方は大したあの、大きな集まりにはなりませんが、まあそれでもあの、息永く私はどうしてもやって行きたいし、そしてその過程で私達と有本さんなんかの家族会、それから救う会とは絶対提携してですね、やって行く積もりでおります。

で、お父さんには11年前に、あ、10年前に震災のありましたあの時にお宅を訪ねて、色々お話を聞かして頂きました。その頃、さっきお話がありました様に、マスコミからも外務省からも社会党からも、それから他の党からもですね、殆ど相手にされない中で、孤軍奮闘なさっているお二人のお姿、見まして、本当にまあ胸打たれながらも私も、何としてもこれ解決の方向に持って行きたいと。まあそんな事でですね、有本さんもあの通り仰いました様に家族でね、大変な揉め事が、揉め事というのが、公表して表に出してマスコミに顔を出して、だもって、やったら「恵子が殺されるんじゃないか」と。はっきり言って。何かされるんじゃないかと。それよりももっと裏で、中山正暉さんですか、ああいう議員さんだとか、土井さんだとか、土井たか子さんですね、ああいうパイプをお持ちの方にこっそりと裏の方でやった方がいいんじゃないかというね、そういうご意見がもう一方。ご家族の中だったら当然あったと思うんですね。だから激論、大変な激論があったのは、それは有本さんのみならず、めぐみさんのお父さんお母さんの間でも、もう幾晩も寝ずに、もう夫婦喧嘩であったと。「めぐみを、自分達が名乗ってそして街頭に立ったら、めぐみは絶対に消される」「いや、そんな事はない。かえって、大きくすれば、世間に訴えたら、かえってめぐみは救われる」その激論でですね、もう幾晩も幾晩も話し合ったという風なお話があります様にですね、私はもう本当に、ご家族の胸の内を推測すれば本当に辛い、あの、事だったろうと思います。しかし、遂に踏み切られて、表に出るという事で家族会の結成、街頭署名、そしてもう何処にでも行かれる様になりまして、アメリカでお会いしたのは私が丁度、今後ろで売っておりますが、この本(『金正日 隠された戦争』)を書く為に2000年の5月から、えー、去年の10月まで4年4箇月、アメリカにおりました。そのとき拉致の、家族の方々がお見えになるという事で私は、2001年の2月の25日だったんですが、「ワシントン在住 拉致被害者救出のための日本人有志」と書いて、畳半畳ぐらいの紙にですね書いて、「有志」って私1人なんですが、それでもあの、あのー、あそこに、ワシントンに常駐しておりますテレビがね、3社写しに来て、私の、こうやって(掲げて)やっているのを、あの、それを写したもんでね、「萩原はこのごろ姿見えない思ったらワシントンにいるのか」と言って、私の友人がびっくりして電話くれたりなんかした事もありましてですね、その時に有本さんが、4年前なんですが、非常に元気よく国務省やなんか回られましてね、随分大活躍なさったんですが、まあそういう風に、表に出るんだと。そしてもう皆さんに直接訴えるという事によって、状況はもう大激変しました。それが、ご家族の決断が何よりもその基礎だったんですが、それを支えた皆さん方のこの熱情と行動力と、そしてこの今日ここにお集まりの、こんな寒い中でですね、私もう、ちょっと出るの雨降ってるし、私は車は乗らないんですが自転車でね、傘片手に傘差して寒いなあなんてね、こんな事言っている場合じゃないと思ったのが先程の、あの駅前で、もう青年達がね、ビラ配って、本当にもう胸打たれて、私も頑張らにゃいかんとつくづく思いました。

まあそれを、ちょっと長い間合いを置いて恐縮ですが、私があの、今日申し上げたいのはですね、あの国に縁あって1年間住んだ事があるんです。あ、ちょっとあの、水を…どうも…すいません…(お猪口で飲む様な仕草に会場笑)…ああ、あの、私あの、子供の時にあの、小心恐怖症という、れっきとした病名のついた病気の持ち主だったんですが、人前でね、30秒の話も出来ない小心恐怖症、アガリ症ですね、もうガッタガタ震えてね、声が出ない。もう11歳、忘れもしない小学校6年から21歳の時まで、11歳から21だから、もう10年間も、もう地獄でした。本ッ当にもう辛いです。学校で先生に当てられるのが死ぬほど辛いから学校に行くのが苦痛で、今の様に不登校なんて時代じゃありません。縄つけてでも引っ張って行く様な、そういう状況でしたので学校には行ったんですが、もうそういう事で非常にアガリ症で済みません、水を度々飲むかと思うんですが。それで私はあの、縁あってですね、北朝鮮のピョンヤンに1年間暮らしましたのは、赤旗の記者を昭和44年、1900で言えば’69年ですか、この年からあの、私は赤旗記者を20年やってまいりまして、で、その中で、さっきお話の出た兵本の達吉さん、この方とは同じ共産党の本部で働いておりまして、そしてあの人が拉致問題に非常に熱心で、次の国会で取り上げたいんだと言って情報集め・資料集めをやって、私が少しあの人に協力して、それが橋本質問という歴史的な質問になったんですね。’88年の3月25日ですか(26日の誤り)、「拉致は北朝鮮がやったという証拠が極めて濃厚でございます」という、当時の国家公安委員長の梶山静六さんの歴史的答弁を引き出した(正確には、「恐らくは北朝鮮による拉致の疑いが十分濃厚でございます」。この直後、当時の宇野宗佑外務大臣も同様の答弁をした)。その質問をですね、練り上げたのが兵本達吉さんなんですが、勿論、橋本(敦・当時の参議院議員)さんも当然それを指導したからまあ両者の合作ですが、材料は全部、兵本さんが集めて、で、兵本さんが私にも取材に来て、私も何がしかの資料を提供しましたんでね、まあ謂わばあれは皆の合作だという事なんですが、その兵本さんが残念ながら共産党を除名されまして。私は「除名されたんですか?」「いや、私は除名はされておりません」「じゃ、今も共産党やっているんですか?」「はい、やっております」と、いう事でやっております。ただあの、もうトシですから、全部任せるから好きな様にやれという事を私が言って、「飲む時だけ言って来い」という事で、飲み会だけに出ております。しかし私がやるべき事は、その、北朝鮮の専門家としてですね、私はその面で大いに貢献をするという事で、拉致の問題、それから帰国者の問題、それからあの国で、最も苦しんでいるのはあの国の人民ですから、あの国の人民を救う為にという事で私は今やっておりますが、話を元へ戻します。

’69年から’89年まで20年、記者生活の中で、’72年にピョンヤンに行けという事で特派員で行かされました。で、特派員で行って1年で追放なんですが、その追放された理由がですね、私の謂わば無二の親友とも言える高校の同級生、定時制高校で一緒に机を並べた少年とですね、非常にこの、親しくなって、私は何ンにも知らない、朝鮮の問題は何一つ知らない普通の日本人だった私に、朝鮮半島に目を開かしてくれたその友人が、帰国運動で北に帰っちゃうんですよね。で、社会主義朝鮮の祖国の建設の為にという事で勇躍、1960年、60年安保の年です。帰ります。その時、私は2つの約束をしました、彼と。「必ずピョンヤンで会おう」と。「その時、僕は君とは朝鮮語で喋れる様になっておくから」と、この2つの約束で。で、その2つの約束が十数年振りに実現する事になってピョンヤンに行きました。朝鮮語も喋れる様になっておりました。て言うのは、その間に大阪外国語大学で初めて朝鮮語科を設けたんで、私が一期生として入学出来まして、まあそのお陰で言葉も喋れる様になった。2つの約束を持ってその男を捜しました。「見ろよ、約束を俺は守っただろう」と言ってやりたかったんです。ところが何処を捜してもおりません。何処にもいないんです。で、あちこち捜している中で、「あいつはどうも、何か我々の秘密を探っている様だ」という、北朝鮮当局から疑いを持たれる。その街に歩いただけで、何がスパイですか。赤旗の記者のみならず新聞記者が街に歩いて、そこのラーメン食って、ラーメンて朝鮮のお蕎麦、冷麺、冷麺食ってビール飲んで帰って来たら、翌日呼び出し。「特派員が市内で好からぬ事をしている」。「好からぬ」って、蕎麦食うのが好からぬ事なんですか。そういう事で、結果的に私を或る罠に嵌めてスパイ罪でブチ込もうとしたんです。その罠に乗ろうか乗るまいかのギリギリの決断の時に、私は「何かこれは陰謀だ」と思って行かなかったが故に、私は今日皆さんの前で立てる訳ですが、あの時乗っていたら、そこに張り込んでいた北朝鮮の秘密工作官によって逮捕されて、スパイ罪で懲役20年ですね、20年も生きられる訳はないんですよ。あそこのあの、刑務所は零下25度ですから、暖房ありませんから私なんかまず、夏に、秋にでも逮捕されたらもう10月の、1箇月後の10月頃はもう零下ですから、もう暖房も何もありませんからそれでコロッと死にますね。だから何も手を下さなくても私は完全に消されたであろうという風に、まあ思っております。まあそれで、私がその罠に嵌らなかった事を彼らはコンチクショウと思ったんでしょうね。思ったんでしょう、その2箇月後、私は国外追放となりました。それも、友人を捜したという事だけなんですね。破廉恥な事をやったとか、本当にこう、何か情報を盗み出した、そんな事では絶対にない訳であるにも拘らずですよ、普通の事であったにも拘らず追放と。それで、結局私がですね、私を危険人物としたあの国の理由というのは、結論的にはこういう事なんです。もう嘘八百の国なんです。嘘八百。「地上の楽園」と言って、私の友人が喜び勇んで帰ったのは、何の事はない、もう全部、不平不満分子で消されていた訳なんです。今に至るも消息ありません。私は本も書きました(『北朝鮮に消えた友と私の物語』 話に出て来た罠が如何なるものであったかも冒頭に書かれている)。本も書いたら、もし見ていれば何らかの反応がある筈なんですが、ありません。彼等はもう早い時期に、’60年代に消されていた訳なんですね、’60年代に。’60年に帰って’67年に消息が絶つんですが。消息が絶つんですが、その直後ぐらいに恐らく強制収容所で殺されただろうという風に今は推測出来るんですが、あの当時は何にも知りません。何とか会えるだろうと思って。まあそういう事もありまして、えー、私を追放した北朝鮮当局の、この非常に邪な、このー何て言ったらいいんでしょうね、もう嘘八百、もう何から何まで嘘で固めたあの体制、しかも真しやかに。この、これをですね、私なりにもう徹底的に暴いてやろうという事をずーっと、共産党の記者をやりながら思っておりました。

ところが日本共産党と朝鮮労働党はお互い兄弟党という関係、兄弟ですね、兄弟の関係という事があって、私は言いたくても出来ません。やれません。ところがひょっこり出て来たのは、大韓航空機の爆破事件。これは1987年の11月30日(29日の誤り)だったんですが、あの、大韓航空機がですね、あれはウィーンからですかね(バグダッドの誤り)、出てずーっと、アブダビで途中下車というんですか、して、それでまた、あの、バーレーンですか、済みませんちょっと記憶が。もう20年前になりまして。えー、バーレーンを飛び立って、そしてインド洋のあの辺の沖で突如、忽然と消える訳ですね。で、この一人生き残りのキムヒョンヒという、蜂谷真由美ことキムヒョンヒ、あの人がですね、’88年の1月15日にテレビで記者会見やったんですよ。これジーっと聴いてましてね、ウーン何だこの、僕は丁度、彼女がね、’72年の11月2日の話をしてるんですよ。色んな話をする中で「私は、」、キムヒョンヒ曰くですよ、「私は、1972年の11月2日に南朝鮮から来たお客さんに歓迎の花束を渡しました」と言っているんですよ。それ聴いてですね、「えっ?’72年の11月2日、私がいた時だ」と。それでその情景を彼女が喋っているのを見ましたらね、私の記憶と全くピッタリ一致するんですよ。それでヘリポートであったと。ヘリポートの、ヘリコプターから南朝鮮の、韓国ですね、南朝鮮のお客が降りて来た。それで、「降りて来た2番目の人に花束を渡したのが私です」と、そう言ってるんですよ。そしたら、僕もあのヘリポートに行ってるから、何か証拠があるんじゃないかと思ってそのテレビの、聴いたその晩、帰ってですね、ダンボールをいっぱいひっくり返したんですよ。3つばかりこっそり持ち帰ったダンボールの中に、そしたら彼女の写ってる写真があったんですが、で、写真を私が共産党の出してるグラフ『こんにちは』という薄っぺらな雑誌、それにさり気なく出せという上部の指示で、さり気なく出しました。それが一躍バーッとテレビで、皆さんもどっかで見られた事あるんじゃないでしょうか、(北朝鮮がその存在を否定しているキムヒョンヒが、北朝鮮の人間であるという)唯一の物的証拠と言われて。それまで北朝鮮は、我々は絶対やってない、あれは韓国が仕組んだ自作自演劇である、と言ってる中で、事もあろうに兄弟党の、兄弟の党の日本共産党の特派員が、写真が、実はキムヒョンヒはここに写ってますという風に出したもんだから吃驚仰天して即日、朝鮮中央通信が私を名指しで「体を大事にせえよ」と。(会場笑)それがありまして、体を大事にしてますから、(会場笑)今、生きております。まあそういう事で国家的な脅迫状を私があの、頂きましたんで、まああの、相手にとって不足はないし。あの、ジャーナリストの最高の名誉は政敵に消される事、これなど僕は最高の死に方だと思ってますので、もう何ぼでも来いと。(会場笑)、私は、政敵ととにかく、ズドンと一発でもいいし何でもいい、彼等に殺られて、そして名誉の戦死をするのが、これこそが天晴れなジャーナリストだと思うんですが。

僕も嘗ては軍国少年でしたから、小学3年生で敗戦を迎えまして、だから今、戦争を具体的に知っている、爆撃の恐怖も、私は高知市内、高知で焼かれたんですが、四国の高知で全市が一晩で焼かれた。あの中を小学3年生の私が子鼠の様にチョロチョロ逃げ回っている、そういう記憶もありありとあるんですが、戦争を知ってる最後の世代となったんですが、まあそういう事でですね、私もあの当時、軍国主義少年で、「天皇陛下の御為に死ねと教えた父母の赤い血潮受けついで心に決死の白襷」と言ってね、歌に歌っていい気になってたんですけども、得意満面の軍国少年ですね、まあそれが共産党ですから、まああの、世の中変われば変わるもんだと思うんですが、僕はだから、あの頃から死ぬ事については、何と言うんでしょうか、普通の人よりもあまり執着はないんです。ですからいつ死んでもいいと。その代わり家族を悲しましてはいけないから、家族は持たないと。だから妻子もおりません。両親は死にました。兄弟だけ4人、大阪にいます。だからあの、『海国兵談』を書いた林子平のね、号が、ちょっと脱線ばかりで恐縮ですが、林子平、幕末の学者。この方の号がね、『海国兵談』を書いて、そして国防、海防をね、力入れよと。もう黒船が来るという事を予想してね、国の、海の守りを固めよというのを書いて、幕府からこっ酷く処罰された林子平、これは四国の松山の方なんですが、この方がですね、号を「六無斎」と言うんですよ。六無斎というのはですね、「親は無し、妻無し子無し、版木無し、金も無ければ死にたくも無し」と、この6つなんですよ。で、「親は無し」でしょ、「妻無し子無し」、版木、版木っていうのは、あの当時は木版画で文字も全部、印刷も版木に彫り込んでそして、今の版画を刷る様に刷ってましたね。だから、版木も幕府に押収されて何にも無い。だから僕はよく似てるのはね、5つ似てるんですよ。「親は無し」でしょ、「妻無し子無し」、版木だけ「有り」、「金も無ければ」、死にたくも「有り」。「死にたくも無し」なんですが、僕は死にたくはないけれども、死は恐れないという事で、まあ4つか5つは似てます。だから僕は林子平さんを尊敬して、ああいう人の様な生き方をしたいと思って、今あの、ともかく家族を持ってですね、この北朝鮮とは戦えないという気持ちがありまして、例えばですね、奥さんに止められたらどんなに辛いかと。有本さんは、寧ろお父さんをけしかけるぐらいのお元気な方ですから、「お父さんもっと頑張りなさい」と、こういう奥さんを持った人は幸せだと。(会場笑)世の中そうはいかない。「お父ちゃん、そんな事をやったらまたもう、えらい何か、弾が飛んで来るんじゃないか」とか「子供がいるんだからお父ちゃん、そんなこと止めてくれ」、そんなら妻子は僕は要らんと。僕はもう自分でね、断固として自分の自説を守って、それで闘って死ねればそれでいいではないかという事を思っていまして、私はあの国の虚偽を暴く事を私の、ジャーナリストの使命だと思って、先ず最初に暴いたのは、大韓航空機事件が北の仕業である、これですね。

その次、朝鮮戦争は何故起きたのか。南とアメリカが攻めて来たからだ、と言う北の言い分を徹底的に論破する為に、丁度フリーになった、自由が出来ましたのでアメリカに渡りまして3年間、アメリカの国立公文書館が持っている北朝鮮文書、というのは何で持ってるのか。朝鮮戦争の時、一時的に、3箇月、北朝鮮をアメリカが占領するんです。アメリカと韓国が。とまあ、何から何まで持って行ってます。こんな、文書類なんかもう全部持って行ってます。あの、それぞれの政府機関、軍の機関、それからあの、党の機関からね、もう何から何まで。それがダンボールで1,350箱、1から10まで見た人間、これはもう馬鹿と言われてるんですが、私が世界で一人だけ。これ全部見まして、それで書いたのは『朝鮮戦争』、後ろに、ちょっと宣伝めいて恐縮ですが『朝鮮戦争』、その本の文庫本があります。もし興味のある方はお買い求め下さい。で、彼らの嘘を完膚なきまでに暴いたというのは、北朝鮮の資料で、北が「私達が攻めた」という事を、証拠を挙げた訳ですから反論のしようがないじゃないですか。だから、北朝鮮の文書でもって、北朝鮮の軍の資料でもって、党の資料でもって、キンニッセイの発言でもって、全部立証してる訳ですからもうこれ以上ですね、これをだから覆すものは、もう既にあれから十何年経ちましたが1件もありません。全部私の後追いをやっております。で、イチャモンをちょっと付けたのは、この拉致問題で本当に悪い役割を果たした和田春樹という人が私の本に、私の書いた『朝鮮戦争』にイチャモンを付けて来て。だから、今になって分かる事は、あの人はもう一貫してキンニッセイ・キンショウニチの手先であったという事は今日、僕ははっきりしてると思うんですね。私にイチャモンを付けて来たのはもう十数年前なんですが、で、つい4、5年前まで「拉致は疑惑に過ぎない」「アンミョンジンの証言は間違いだ」だとか、何だかんだイチャモンばかり付けてましたね。それを何の事はない、事もあろうにその、彼の主人であるところの、事実上の主人であるキンショウニチが「拉致は我々がやりました」言うたら、この手先はどうなるんですか。2階どころか10階くらいに上げといて梯子を外した様なもんでしょ。こういうのが国立大学で月収何ぼでしょう、僕は知らん。あの、僕はマトモなとこ勤めた事ありませんので知りませんが、東京大学の大学教授、今日いらっしゃいますか、どなたか。(会場笑)いらっしゃったらちょっと、月給、多分、僕は50万は下らないと思うんですが、どうかなあ。もっと?80万?!そうですか。はあ。(会場笑)いやまあまあ、それはともかくとしてですね、その国立大学の教授というのは、皆様方の出してる税金から払われているんですよ。僕はもう税金びた一文、そんな金を貰った事はありませんので。奨学資金すら、私はあの、反政府でしたから、今もそうなんですが反自民党ですから、自民党のくれるものは欲しくないと言って、学生時代から奨学資金も拒否しておりました。今は、年金は貰っております。(会場笑)いやこれは、政府の恩恵やないですよね、僕等が掛けたのを返して貰っているだけだからこれは貰うと。もうあとの残りは一切貰ってません。アメリカでですね、4年間いまして、「萩原さん、客員研究員になったら$2,000出ますよ」、$2,000いうたら、当時¥110時代やから22万円、それで部屋をくれるんです。で、部屋をくれて電話が付くんです。で、そこにあの、研究者だからかなりの資料室ありますね。全部読めますね。新聞も勿論。で、アメリカの良いところは研究所は全部コピー、タダなんです。本1冊でも2冊でも、コピーしても全部タダ。まあそういう特典がね、ありまして、私に「ならないか」「いや、絶対にならない。僅か$2,000で私は身売りはしない」と言って、まあちょっとええカッコしたんですが、内心は苦しいです。ラーメンをね、一杯、この¥880のチャーシューメン食うか、あの、えー、普通のラーメンは¥620かとか、まあそんなみみっちい話なんですよね、頭の中は。まあそういう事もありますけれども、私がさっきの話、元に戻して、朝鮮戦争で、暴きました。

で、もう1つ私が暴いたのは、暴いたのはですね、餓死が300万人、これは自然死で、自然に死んだんだという風に言ってですね、北朝鮮が。食糧危機だからかなりの餓死者が出てるという事を、北朝鮮が自然死だという風に言ったんですが、とんでもない事だと。これは、実は殺したんだという事を、私はそれを立証したい為に2000年から、2000年の5月から去年の10月まで4年4箇月、行っておりまして、それで書いたのがこれ(『金正日 隠された戦争』)なんですが、で、これをですね、「隠された戦争」というのはあの、キンショウニチが戦争をしたんではなくて、外国とですよ。国内で、自分の国の国民を300万人、餓死を装って殺した。つまり、「敵対的な人間」があの国に約20%いるんです。人口2,200万だから440万、「敵対階層」というのがいるんです。で、ランク付けの非常に厳しい国ですからまずランク付けを、トップは「核心階層」、中心になる階層ですね、これが20%。それから、3つありまして、その真ん中が「動揺階層」、あっち行ったりこっち行ったりフラフラする階層、これが60%。それから、残る20%が「敵対階層」。これはもう厳然と分かれてます(北朝鮮の「成分分類」については李佑泓『暗愚の共和国』序章に詳しい)。とりわけ「敵対階層」というのは、敵であると。何故ならば、朝鮮半島は南北でずーっと今も戦争状態ですね。平和な状況、南北統一はないんです。常に両軍が100万人ずつ睨み合っている。まあ最近、少しこう、液状化というんですか、少し抜けて行きましたけれども、とにもかくにも南北は1つではない、2つに分かれて争っている。で、争っているが故にですね、そして、まして朝鮮戦争をやった為に、あの時に占領された北朝鮮の中で、占領政策に協力した住民がいるんです。例えば、この食料を運べとか、この弾丸を持って行けとかいう、荷役ですね、荷役に駆り出されて土方工事だとか、色んな塹壕掘りなんかに協力させられた住民が、全部「敵対階層」として残っている。一旦、一朝有事の際はこの連中は自分達に刃を向けて来る人間だ、と言って常に敵視して監視をして差別をして。それが20%いるんですが、それをですね、キンショウニチは殺そうとしたんです。で、殺そうとした契機は何か。’89年12月25日、思い出して下さい、ルーマニア。流血革命。崩壊しました、社会主義国が軒並み。唯一、武力の、流血の崩壊になったのはチャウセスクのルーマニアだけ。そしてチャウセスク夫妻は反逆罪で、人民に対する罪で2人とも銃殺されましたね。そのビデオをですね、ずーっと連行されて、チャウセスクが連行され、…えっ?はい。もう時間がない?あ…(会場笑)そうですね、…連行されて、逮捕され連行され、処刑されるまでのビデオを、或るフランスのね、テレビが写したんですが、それをずーっと幹部に、何百人も幹部を集めて1週間見せたんです。’90年の1月ですよ。つまりチャウセスクが殺されて1箇月経たない間にそれを見せて、そしてキンショウニチはこう言った。「見ろ」と。「人民が反乱を起こせばああいう事になるんだ」と。「お前達、気合を入れろ」と。「あいつらを、絶対に反乱を起こさせてはにならない」という事を厳命を下してですね、幹部のネジを巻く訳なんです。で、本人はどうするかって言うと本人はですね、本人はあの「敵対階層」を抹殺する、殲滅するという計画を立てる訳なんです。その事は、途中はもう省きます、今あともう、まとめろという事でしたので、それは本に書いてありますので。書いてありますので、あの、見て頂きたい。で、その中でですね、1つだけ申し上げたいのは、その人民を餓死を装って消してしまう、声も上げずに消してしまう方法は、食料の中断という事なんです。配給を切る。配給を中断する。刑務所で宛がいの食事しか貰えない囚人の人達は、それを切られたら死ぬしかないでしょう?それと同んなじ事を、北朝鮮は配給制ですから、何から何まで完全配給制、それを切ったらどうなりますか。もう6箇月1年後には、いくら草の根や木の皮を剥いで食っても持ちませんよね。300万人が消えました。

その息子の恐るべき計画に反対したのが、何とお父さんのキムイルソンだったんですよ。親子が激しい対立をします。激しく対立して、それで親父はどう言ったか。農業を立て直して食糧を増産せよと。食糧増産の為には、今、電力が不足で停電に次ぐ停電で肥料工場が動かない。だから重油を買って、外国から買って、そして火力発電を起こして、肥料工場を起こして農村に送ってやって、農村を立て直せと。そして餓死をなくせと。この為に彼は火力発電を主張したんです。ところが息子はですね、いやもうアメリカと対決する、と称してですね、原子力発電だと言うんですよ。で、原子力発電の軽水炉を貰って、アメリカから貰って、それで密かに原子力の発電をすると称して実は核兵器を造ると。この両者のですね、原子力発電か火力発電かで親子は決定的な対決をしてですね、そして運命の3日間を迎えるんですが、彼は、キムイルソンは、私のこの本によりますと、1994年の7月7日に死なねばならないと運命付けられていたんです。何故か。7月6日、お父さんは100人ぐらいの幹部達を集めて最終決定を下して、アメリカと和解せよと。和解の条件として我々は核を凍結すると。その代わりに、核を凍結する代わりに火力発電所をくれと。これを要求しろという事を最終決定として断を下した。その晩ですね、キンショウニチは会議をボイコットしてたけど、夜こっそりテープでその親父の方針を聞く訳ですよ。何故ならばその翌々日、ジュネーブで北朝鮮とアメリカの高官、ハイレベルの高官協議というのがあって、そこでアメリカから軽水炉、原子力発電を貰うか、火力発電にするか、どちらかを決めなければならない。ショウニチは、もうずーっと外交分野も自分の方で切り回していて、アメリカには軽水炉をくれと言って、アメリカもそれを大体呑む最終決定の日が翌々日の7月8日。7月の6日から7月の8日まで、たった1日しか殺す日はありません。その日に、きれいにお父さんは死にました。それを(『金正日 隠された戦争』に)書いております。それで私が、もう結論です、あの、もう止めます。それでね、私は、拉致の、こういう国内での皆さん方の御力に励まされて、私は私なりに闘おうと思って、闘うにはどうするのか。キンショウニチ政権に打撃を与えなきゃ駄目なんです。これに圧力を加えない様なね、話し合い話し合い、圧力の伴わない話し合いなんて茶飲み話じゃないですか。済みません、ちょっと水を…もう結論ですので、あの、もう2、3分お待ち下さい。圧力を伴わない話し合いなんてものは、単なるただの茶飲み話である。圧力。皆さん方の圧力があったからキンショウニチが拉致を自白したでしょ。これ、明々白々たる事実なんです。彼が賢いから自白をしてそれで、ていうんじゃないんです。もう持たないと。日本のこの世論の状況、彼よう知ってますから、テレビ10台つけてるんですからね。まあそんな事で、あの、彼は日本の状況、世論の状況を見て、もう拉致を自白して、逆にいわゆる植民地の賠償を取ろうと、こういう算段になったのも皆さんの圧力なんですよ。

それをいい気になった、僕はまあ、あの、愚かなニワトリと呼んでるんですが、小泉首相なんですが、自分が何かやってる様な。とんでもない話。そのとんでもなさ、或るニワトリがいるんです。ニワトリは朝、コケコッコーと鳴きます。太陽が昇ります。ニワトリは錯覚した。自分が鳴いてるから太陽が昇って来るんだと。小泉さんと同じなんです。自分が拉致に取り組んだから拉致は片付いたやないかと。5人帰って来たやないかと。とんでもない話。彼はただ、愚かなニワトリで錯覚してるだけで、真の力は、皆さん方にあると、国民の力にあるんだという事を私は申し上げ、そして私も、ジャーナリストとして出来る事は何か。あの連中、あの北朝鮮の、この悪魔的なですね、有本恵子さんをあんな目に遭わして、ご家族にこんな苦しみを与えてる者に鉄槌を加えたいという思いで私はこの本を書いて、そして何を狙ってるのか。内部対立を狙ってるんです。内部対立を狙う。どういう事なのか。僕は今これをですね、英語、私、下手な英語で今、自分で英訳してるんです、お金ないから。あの、100万かかるんですよ。もしカンパ100万あれば僕はその分ね、あの、別のこういう集会にも出られるんだけど、いやそれは冗談ですが、僕はこれを訳してます。これを訳してね、まず韓国語に訳します。韓国語は友人がやってくれてます。韓国の友人がやってくれてます。アメリカの友人も私を助けてくれますが、基本的には私が英訳してます。で、これをね、韓国語で実は出そうという事はですね、内部対立を起こしたいんです。そしたら、僕の狙いがバッチリ、これ、アメリカが一番先に乗って来ました。『ニューズウィーク』。これはね、この本が出て、たった1週間後にもう、萩原はかくかくしかじかの事を書いてると言ってですね、あの、載っけてくれて、えー…あのね、ちょっと後ろの方、見えないと思いますが、これ日本語版も出てるんですが、日本語版は買いに行ったらもう売り切れて僕は入手出来なかったんで、ちょっと英語で恐縮ですが、あの、「サバイバルモードに入った」って、もう生き残り、生きるか死ぬかのね、局面に入った。で、萩原はかくかくしかじか言ってるというね、私の名前を2箇所出して冒頭からあの、私の本の紹介をしてくれてる訳なんですが、アメリカがですね、一番早かったんです。で、これを見た、あの、アメリカの議会がスポンサーになっている自由アジア放送というのがあるんですが、自由アジア放送が早速、東京総局長が取材に来ましてね、それであの、それについてちょっと喋ってくれって言うんで、で、私が、まああまり上手いとは言えない韓国語で2時間インタビューに応じて、それがもう、すぐ12月5日にですね、北朝鮮向けの放送で出たんですよ。で、僕も聴きました。ああ、下手な朝鮮語を喋ってるのがおるなあ、と思ったら私の声でした。(会場笑)まあそれでもね、いいんです、下手でも。あの、アメリカの自由アジア放送が1日4時間、韓国語でやってます。で、ベトナム語でも中国語でもやってんだけど、韓国語・朝鮮語の時間が4時間。で、それで萩原遼がインタビューに応じて30分、30分間、私の朝鮮語のを流してくれまして、それで、早く韓国版作ってくれ、15回朗読をそれしたいと言ってるんで、これを、韓国語を急がにゃなりません。英語も急がねばなりません。英語版はこれが、これ皆さん、冗談として聞いて下さい。これが英訳されて、或る人は「ハリウッドに持ち込む」と。ハリウッドに持ち込んで、そして、「この父親殺しの事をハリウッド映画でやる。そしたら萩原さん、原作料いくらくらいかな」言うんです。(会場笑)「まあそれは1億円でしょうねえ」と僕は言いました。「まあ1億円を下る事は駄目ですねえ」と言って。もし皆さん、1億円入れば、5,000万円は拉致にカンパします!(会場拍手、そばで「有り難うございます」という声がする。有本明弘さんか?)皆さんこれ、もう皆さんの前でのこれ、公約ですから、もう絶対聞いといて下さい。5,000万円は耳を揃えて有本さん達にカンパして。断固としてね、皆さん、闘いましょう。そういう事で、今日はあの、もっともっとお話したい事もありますが、また、これを機会に、あの、これをご縁として、いくらでも参ります。私はあの、飯能に住んでますから、家から八高線で来れば、案外近いという事が分かりましたんでね、これからも皆さんにお目にかかって、共に闘って、頑張って、有本さん、めぐみさんその他、拉致の方々、1日も早く生きたままで、取り返しましょう。頑張りましょう、皆さん。どうも有り難うございました。(会場拍手)

 

質問:
アメリカの北朝鮮人権法はキムジョンイル体制にどの様な影響を及ぼすでしょうか。また、日本では北朝鮮人権法はいつごろ出来るのでしょうか。

回答:
はい。アメリカの北朝鮮人権法は、去年の10月ですか、上下両院満場一致で、上院と下院、全て満場一致で通りました。で、私もまだ、その詳細までは分析・検討しておりませんので、ちょっとアバウトなお答えになるかも分かりませんが、最もポイントは脱北者の問題に目を向けてる事なんです。北朝鮮を命懸けで脱出した人が、中国と北朝鮮の政府、それから情報機関、国家保衛部ですね、それによってもう物凄い過酷な取締りを、逮捕し、拷問され、そして本国に、北朝鮮に送還される。そこでまた、鍛練所だとか、やれ強制収容所だとか何だとかいうとこに入れて、もう人間以下の扱いを受けてますね。こういう、そもそも人間の、あの何て言うんですか、自分の住みたい所に住む、国籍を、国でも、もし「もう日本が嫌だ。どっかの国に住みたい」と思うんなら、みんな自由なんです。基本的人権なんですね。行きたいとこに行くと。行きたいその国の政府が承認すれば。まあそういう事で、脱北者を保護するという事で、画期的な事だと思うんです、私は。しかも予算を付けた。2,000万ドル付けました。20億円。これ多いと見るか少ないと見るか、まあともかくですね、脱北者の人達は、今日もお見えだと思うんですが脱北者の救援基金ですね、「北朝鮮難民救援基金」の方も、みんな身銭切ったり介護されたり交流されたり、で、私達の「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」の山田文明代表、ここであの、半年ほど前にありましたですね(昨年4月11日の第6回市民集会)、その方も逮捕されて21日間、中国で臭いメシを食うという事もありまして、だからそういうのをね、ともかく脱北者は違法行為であると中国・北朝鮮は言う訳です。何を言うかと。その人達は保護しなけりゃ駄目だと。命からがら、自分達の命を、命をですね、もうここでは生きて行けないから逃げて来る人を、何でまた生きて行けない国に送還するんですか。これをストップ掛けるという事をですね、明確な意思とはまだ100%とは申しませんけど、脱北者をですね、アメリカの議会が保護すると言った事は画期的な内容です。しかも予算を付けたという事。だから私は、いま平和的・合法的にあの北朝鮮の体制を崩す為には、私は脱北者を10万、20万、50万、100万単位で出す事だと思うんです。出す事によって、あの中国と北朝鮮の結託した、この人民抑圧の体制をですね、もう世界の前で、もう皆が見てるところで、もうお前の国はどうなってんだ、という風に天下に曝け出す事が、私は平和的合法的な、あの体制を崩壊に導き、有本さんの娘さんやめぐみさんやその他の人達を無事に帰らせる、一番あの、私は、いま我々が取り得る最高の、最善の方法だと思うてますので、私はアメリカの人権法を強く支持してます。これはもう徹底的にやれという事で。それで、先程もちょっと申しましたんですが、アメリカは議会がスポンサーになってる放送局を持っていて、で、朝鮮語で4時間、ベトナム語で何時間か時間帯がありますでしょ、これによってですね、あの、脱北を呼び掛けてる訳ですよ。出て来いと。出て来なさいと。これは、平安時代から日本でも「逃散」(ちょうさん)という、領主の不当な苛斂誅求に対してですね、無茶苦茶な取立てに対して抵抗する、非常に積極的な農民一揆だったんですよね。だから、「逃げる」という事は単に逃げ惑うんじゃない、明確な反政府の意思だから。中国に逃げなさいと、或は韓国に逃げなさい、或は海を渡って日本にも渡って行きなさいと。その為にこの前、私が或る講演で、白眞勲という民主党の国会議員なんですが、去年(の参院選)に通りまして、で、その白さん、白議員に私は訊きました。「民主党はどうやるんですか」「今国会中に必ずやります」と。今もう案も出来てます、今、自民党と若干の摺り合わせもやってると。もう必ずやれと、で、アメリカを上回るものにしなさい、して欲しいと、私は言いました。予算も、アメリカが2,000万ドルだったら倍ぐらい付けろと、40億円付けろと。で、日本は、アメリカがですね、やるんやったら、日本は最も近い訳だし、最も関係が深いんですから、その、スマトラ沖の問題も勿論ですが、スマトラ沖、それから頼まれもしないイラクに出すんだったら、その何分の1かのお金でね、北の難民が救えるし、その事によって結果的に崩壊出来る訳だから、僕はもう、絶対やってくれと言ってあります。僕も頑張って、いま法案にね、協力をしております。

 

質問:
当初、共産党は、大韓航空機爆破事件は真偽確認出来ないとしていたが、宮本議長が後で北朝鮮の犯行だと主張、その変化のいきさつをお話下さい。

回答:
はい。えー、私はあの、党中央委員会を代表しておる訳ではありませんので、その辺はあの、まあ割り引いてお聞きになって下さい。で、初めはですね、大韓航空機の爆破事件が起こりました時に、『赤旗』、共産党の新聞の『赤旗』の社説に当たる部分の「主張」という欄なんですが、ここでね、我々はどちらがやったとか特定出来る情報を持っていないと、従ってどちらがやったかも判らない、という事をですね、書いた訳なんですね。その翌日か翌々日、宮本さんが、あの、宮本さんがですね、いやあれは北の犯行である、と断定したんです。その根拠はですね、私も先ほど申しました’88年の1月の15日にキムヒョンヒが、テレビで長ーい会見をしたんです。つまり自白の会見。私は北から来た人間である、で、大韓航空機858便に爆薬を仕掛けた、時限爆弾でそれが爆発する様に装置をセットした、で、飛行機は爆破されてバラバラになった。まあこういう事を全部テレビで記者会見やったんです。その時ね、宮本さんは、僕はこれは非常に印象深く思い出すんですが、「あのキムヒョンヒの自白は演技で出来るものではない」。「演技で出来るものではない」、つまり、北は「あれは南の自作自演で、我が国の人間ではない」と言ってる訳でしょ。ところが、そのキムヒョンヒは、私は北の人間です、どこそこの小学校どこそこの中学校出て工作機関の或る大学でこうやって、そしてキンショウニチの直筆の指令書を受け取って出撃しました、と全部言った訳なんですね。それを見た宮本氏が、「あれは演技で言えるものではない」。これはね、本当に含蓄深いんですよねえ。僕はね。理由の1つに宮本氏がこれを挙げたんですよ、「まだ指導者に対する尊敬の念を捨て切れていない」。ね、キンショウニチを激しく批判してる訳ですよ。自分をこんな目に遭わし、115人の命を奪う様な反社会的な事をやる様、私は指示をされ、やりました、本当に申し訳ない、と涙を流して。涙を流しながら自白をした。その時に、「まだ指導者に対する尊敬の念を捨て切れていない。あの表情は演技で出来るものではない」、故に北の人間であると断定した。まあ僕は、指導者の決断というものは、ああこういうものか、と感心しました。その時、成程と。あの人は色んな人間を見て来た訳でしょ。裁判で、ずっと治安維持法で、またリンチスパイ事件と言われるね、その事でずーっと裁判で、色んな人間の、偽証もあるし、真実を述べる人もあるし、色んな証人やなんかの。それをね、やっぱり私は人間学だと思うんですね。表情で、やっぱり判断する。だから、キムヒョンヒの僅かな表情を見逃さなかった。僕はその点では、あの人は他の事は偉いとは思わないけども、(会場笑)その点では偉い人だなあと私は思っております。それ以後、あの、ガラッと論調が変わったんで、私も実はそれに励まされて、写真を探し出して、その晩、出して宮本さんの所へ持って行ったと、まあこういう裏話もあります。で、宮本さんが、「さり気なく出せ」と言ったのは宮本氏なんですよ。『グラフこんにちは』という小さな雑誌に、さり気なく出した。これ、宮本さんの指示です。以上です。

ページトップへ

 

松木信宏氏

 おととい(1/13)、友愛会館の方で全国協議会の東京集会があり、お話させていただいたんですが、その時来てくださった方々も、今日もまた来ていただいてありがとうございます。その時の集会では、内輪の話をさせていただいたのですが、今日は・・・、先日「よど号」の裁判の方を有本さん・石岡さんと行きましたのでその話しをちょっとしたいと思います。

 その裁判に行きました時に、「よど号」の支援者たちがずらっと(外に)並んでいまして、まあ先着順ということで、私たちはその前にちょっと用事がありましたものですから、救う会の皆さんや支援者の皆さまに場所を取っていただいていまして、私や石岡さんや有本さんが来られましたら、彼ら(よど号犯の支援者)もそれに対抗しまして、どこからかさくらの方を連れて来て、少しでも私たちにその「裁判を傍聴させないように」というかたちでやっておりました。

 ところがまあ、私たちの方が来ている人数が多いものですから、一人抜け二人抜けってことで、おかげさまで裁判の方は聞かせていただくことができました。それでその時に、向こうの支援者の「救援救護センター?」の事務局長をやっておられる山中さんが、ぼそぼそっとぼやいていたらしいです。「今日は旅券の方の裁判なのに、何で拉致問題なんだ?関係ないじゃないか!」ということをしきりに言っていたらしいです。

 あと、うちの支援者の方が「二家族来ているぞ!二家族来ているぞ!」と言っていたのを聞いたそうです。おそらく有本さんや私なんかの顔は、どこかで見る機会があって知っていたのかもしれないんですけど、石岡さんはあまりメディアに出ることも少ないですから、まったく気づかなかったんでしょう。まるっきりノーガードだったというふうな状態です。

 まあ、しきりに「拉致問題は私たちには関係ない!」と言っておりました。「関係ない」と言っていましたが、では何故空港で有本さんと一緒に写真に写っているのか?何故関係ないのにスペインのアパートで、私の兄や石岡さんと一緒にいたという証言者が現れるのか?まあ、結果は自ずから明白なのではないかなと思います。

 まあ、「よど号」のメンバーたちは「自分たちはハイジャック犯で罰せられるだけ」と思っています。「ハイジャック犯」じゃ「死刑というのはない」と思いますから、ウソを言っても刑務所に入れば、がんばって長生きをすれば出て来られますから、年は取るでしょうけど、安心して生命の危険・外部からの生命の危険というのは一切感じない。ただ、その周りに高い塀があるということです。

 「よど号の妻たち」に至っては、おそらく裁判で執行猶予とか着きますから、その裁判が終わった時点で監視の目は付くでしょうけれども、日本国内を闊歩して歩くということになるんではないかと思います。

 ずうっと私なんかが申し上げておりますけれども、被害者が帰って来られないのに、加害者が帰って来るということは、どうしても私などは「解せない!納得できない!!」と思っております。

 また、被害者は何の発言をすることも与えられない。で、加害者は自分たちの都合のいいように言う。またこう言っては何なんですけど、マスコミの方の中には「よど号の支援者」と言ったら語弊があるかもしれませんけれども、親近感を持ってシンパシーを感じている方がたくさんいるようで、どうも「拉致問題」はたくさんやってくださいますけれども、「よど号」によって拉致された、「よど号妻たち」によって拉致された被害者については、トーンがどうしても弱くなりがち、というふうに私なんかはずうっと見ています。

 まあ、おそらくそういうことが元になって、先だっての夕刊フジなんかの「よど号妻たちの色仕掛け拉致」とか、一時前は、私なんかが「家族会」に参加させてもらう前などは「松木家、お金がなくて救う会活動できず」って週刊誌に書かれたりしました。お金なんか、別にあの持ってはいませんけれども、かといって「自分の家族を助けられない」という程、落ち込んでもいませんし、まあ、ずいぶんなこと書いてくれるなあと思っております。

 「拉致」についてはある程度ご理解をいただいていると思いますけれども、ことこの案件と言いますか「よど号」のことについては、マスコミの方が及び腰だなぁと思います。おそらく今日、有本のお父さんが・・・の話などされたと思いますが、その時に関わったのがとかく受信料でお騒がせのところなんですけれども、そちらの記者が会見をさせないようにいろいろやったりしていました。

 で、おとといの時、私も話し忘れたんですけども、新聞の方で「松木家の人が欧州から行方不明になった」という記事が、(先に)毎日新聞が流れてから、各局に流れたことがあるんですよね。9・17(2002年)よりも遙か前の1991年かそこらだと思うんですけども、その時私の自宅に、その時はまだ名前を公表していませんし「判るわけない」と思っていたんですけれども、ある日朝起きましたら、朝の6時くらい?でしたか、まだ外は暗い時間なんですけども、思いっきり外が明るいわけですよね。目が覚めたら、何かライトが照らされていて「何事かなあ?」と思って表の扉を開けましたら、某国営放送というかまあ、公共放送の記者さんやテレビ団がいて、カメラが回ってまして「スペインで行方不明になった松木さんのご家族ですか?」って言うわけですよ。

 で、慌ててこちらはビックリして扉を閉めようとしまして、そのあと表に行けないようにしたんですけども、ずうっと1時間以上ですかね、扉をガンガンガンって叩かれまして、「・・・何かしゃべってください!!」「何かやましいことがあるから表に出られないんでしょう!!」「早く表に出て来なさい!!」っていうふうな感じでやられたんですよね。

 まあ、当時高校生だったんですけども、本当は表に出てね、「家の兄貴はそんなことやってない!関係ない!!」「こっちが聞きたいくらいだ!!」って言いたいところなんですけども、母親の方が「じっとしてろ!じっとしていたらそのうちいなくなるんだから!!」と。実際その日のうちにいなくなったんですけれども、母親が念のために「学校は休みなさい」ということで、2日ほど一応「風邪」っていうことで私は学校を休んでいました。

 家は、テレビカメラがないんで安心しているんですけれども、今でもテレビのライトとかあたると、どうしてもその時のことが頭に浮かぶものですから、そういう「明るい場所」というのは好きではないです。少しトラウマになっているのかもしれません。

 だから一番初めに表に出る、っていう時には、話すことについてはしゃべろうと思うんですけど、その「ライトがあたる」っていうことがね、どうしても・・・。結局は座ったんですけども、冷や汗が出てきて、苦痛で・・・。あれから3年ほど経ちますけど、今だに苦痛です。

 おそらく一番初め、そういうふうな先入観がマスコミの方では「よど号シンパ」だというふうなことで、やられたんではないかなと思います。おそらくどこのご家庭(有本さん、石岡さん)もそういうふうにやられたんだと思います。

 それで、私の家なんかにも警察というか公安の方々が熊本の実家に来ていたりしましたけれど、ずうっと家にいたら「そういう環境にはない」というふうにはわかってくれたみたいで、その後は生活の面倒とか、私のアルバイトとかそういうふうなことを世話してくれたり、本当に良くはしていただいたんですけども。本当にさりげなーくやって来て、「年寄りと子どもだけの家庭だから巡回しているんです」っていう入り方だったんですけど、実際のところは私の兄の「拉致」の、その当時は行方不明と思っていたんですけど、「自分の意志で行ったのかもしれない」と調査に来ているということでした。

 あの1988年の時点では、外務省なども「欧州から行方不明になっている」ということを把握していたということを、外務省出身の方が本とかに書いておられるらしいので、すべて私たちの知らないところで「日本政府も把握はしていた」けど、何も手を打てなかった、打てなかったというか打つ気がなかったのか、それは実際に聞いてみないとわかりませんけれども、そういうことがありました。

 有本さんのご活動の中で、ある方面に陳情とか行かれても「相手にしてくれなかった」とかいうことをお聞きになっていると思いますけれども、本当に日本国内の「拉致」よりも、海外での「よど号妻」たちによる「拉致」というのは無関心です。関心はあったのかもしれませんけども、議員さんたちも「やっかいな問題だから」と言ってなかなかやらなかったっていうのが実情です。

 それが本当に有本さんの活動で、私たちや石岡さんが内閣に、石岡さんは近頃はコメントを発してくれますけども、本当に有本さんがやってくれていたからこそ、これだけ大きな問題になりましたし、少しでも有本さんたちのお手伝いを、遅ればせながらさせていただきたい、とそういうふうに思います。私などは年齢も若いのに気が短く「行け行けどんどん」の面もあるので、やりすぎの時は「やりすぎだよ!」と言っていただきたいと思います。

 一家族でできないことも、たとえば三家族集まればどうにかなる、まあ「三本の矢」ではないですけども、みんなの家族が集まれば、それぞれ違った知恵も出てくるのではないかなと思います。神戸の時はそういうことになればいいな、ということで集まったんですけど、今回はまた1月末にちょっと東京に来ていただいて、いろいろお話をしていきたいと思います。

 とにかく、帰って来ることを止めようと思って、空港にバリケードとかをはってみたところで彼らは来ますから。そういうことをしようにも、日本国ではそういうことができませんから。帰って来てから、どうやって彼らが居心地を、「これしゃべらないと!!」というような気持ちに、少しでももっていくようなことをやらなきゃいけないな、と考えております。

 まあ、そういうことを口では言ってみても、所詮彼女、いやメンバーたちは「なかなか口を割らないだろうな」と思っております。何故なら彼らは「北朝鮮の工作員」、日本人の顔をした「北朝鮮の工作員」です。

 娘たちも、娘たちには罪はないとマスコミの人たちは言うかもしれませんけれども、私から見れば、帰国した後にも「北朝鮮に行き来をする」ということは、メッセージを持って行くわけですから、彼女たちも「北朝鮮の工作員」です。

 そういう「北朝鮮の工作員」を、日本から平気で出国させたり入国させたりしている日本の国はどうかしています!!私はそういうことを、ずうっと口が酸っぱくなるほど言っていきたいと思います!!今、政府の方には、そりゃあ帰って来て取調べをしたいでしょうけども、先ほども申しましたように「被害者より先に加害者が、生命の危険を感じない国に帰って来る」っていうのはおかしいと。

 そういうふうにならないように、もしできることなら、北朝鮮に私たちの家族が帰って来るまではいてもらう。いいじゃないですか?向こうで死んでも!!病気になって死んでもいいじゃないですか?自分の意志で行ったんですから!!ねっ、「自分たちの意志で行った」んですから!!

 それよりも先に「自分たちの意志で行ってない」人間が、この日本に、先に、「日本の土を踏む」のが当然でしょう?

 あの国で、あの人たちが「邪魔者」として処罰されても、それは自業自得です!ただ私らの家族がそういうふうな目に遭うのは、どうしても納得がいかない!!!

 そういうことをこれから、少しは関心を持ってくださるマスコミの方もいらっしゃるようですので、そういうところをお願いしながら訴えをしていきたいと思います。今後とも皆さまどうかよろしくお願い致します。(大拍手)(ページトップへ

 

大澤茂樹氏

 ただいまご紹介にあずかりました私、特定失踪者「大澤孝司」の兄の大澤茂樹と申します。本日は第9回藤沢市民集会に参加させていただきまして、誠にありがとうございます。またこのような訴える時間までさいていただきまして、高いところからではございますが、「救う会神奈川」の皆さまには本当に感謝いたします。(深く礼をする)

 私ども兄弟は3人おりまして、一番上の兄は、新潟県の巻町というところで家業の跡取りをしております。巻町と言ってもご存知の方はおられないと思いますが、昨年東北電力の町原発予定地を、日本で初めての住民投票で白紙撤回し、ちょっと有名な町でございます。

 私は、現在横浜市瀬谷区に在住しております。「拉致」された可能性が濃厚なのは三番目の弟でございます。私は藤沢市民の皆さまと、こういうふうにしてお目にかかるのは初めてであり、また藤沢市民の皆さまも私の弟の「拉致濃厚」の内容については、ほとんどの方がご存知でないと思いますので、失踪時の状況からお話させていただきます。

 私の弟の「孝司」は、昭和49年2月24日に新潟県の佐渡島で、曽我ひとみさん母子が「拉致」された真野町の拉致現場から距離にして7〜8キロしか離れていない「トキの保護センター」のある新穂村というところで、北朝鮮に「拉致された疑いが濃厚」となっております。

 失踪時、弟「孝司」は27歳の独り者で、新潟県庁の出先機関であります「佐渡の農地事務所」に勤務しておりました。県の職員でございました。

 事件当日は日曜日で、寄宿舎の仲間と午前中卓球をやり、午後から1人で金井町という隣の町に遊びに行き、その帰りに寄宿舎の食堂が休みということで行きつけの飲食店に夕飯を食べに行き、若干アルコールも摂取したようでございますが、そこを7時半頃出る時に、店のおかみさんに「あぁ、飲んだし食ったし、これから寮に帰って寝るか」というあいさつを交わし、そこの店を出て帰宅途中知人宅に立ち寄り、用を済ませ帰ろうとしたところ、弟の後を追ってきた2〜3人の男が、またそこの知人宅も飲食店を営んでおり、そこの店に入ろうとしていた2〜3人のお客さんか定かではございませんが、弟が出ると同時にその店に入るのをやめ、後を追ったようでございます。

 そしてしばらくして、車が急発進するタイヤがきしむ音をおかみさんと近所のおかみさんが聞いたのが最後で、その後の足取りはつかめておりません。また、その知人宅から寄宿舎までの距離は200メートル足らずで、その間に海があるわけじゃなく、また流されるような川があるわけじゃなく、周りは畑と田んぼが多い非常にのどかなところで、大の男が夜の田舎の8時頃そこから突然消えるということは不自然であり、事件当時、佐渡の両津警察・相川警察さんの方からも大掛かりな捜索を行なっていただき、また新潟県の方も、私どもの方で用意いたしました捜索隊も加わり、くまなく佐渡中捜索するも、弟を見つけ出すことも、また失踪する理由さえ見つけることができませんでした。

 私ども家族は、こんなにしていただいたのに、見つからないということは「神隠しにあった」ものとあきらめもしておりましたが、その後の調査で、北朝鮮に「曽我ひとみさん」と同じような手口で「拉致されている疑いが濃厚」とのことで、特定失踪者問題調査会の荒木先生の方からも徹底的に調査をしていただいたところ、弟「孝司」は北朝鮮に「拉致」された以外に佐渡島から失踪する理由は何一つない、ということで調査会の1000番台のリストに入れていただくことになりました。

 また、政府認定は証拠不十分とし、今現在も新潟県警の方で専従班が設けられ、毎日捜索が継続されているようでございますが、一昨年の10月16日新潟県警の定例記者会見の場におきまして、私の弟と山梨県甲府市で「図書館に行く」と言って自宅を出たまま行方がわからず、4日後、同じく新潟県の柏崎の荒浜海岸というところでセカンドバッグが見つかった「山本美保」さんの2人が、「拉致の疑いが濃厚」との新潟県警の異例中の異例の見解をいただくことができ、私どもは新潟の救う会、山梨の救う会、それと調査会の先生方と内閣府の拉致支援室を通じ、日本政府に一日も早い「拉致認定と救出を求めるお願い」を5回も6回も行きましたが、未だに政府認定には至っておりません。何なんでしょうか!!

 現場を捜索している新潟県警が「拉致の疑い濃厚」と言っているのに、日本政府は未だに認めておりません。私のところはともかくとして、川口市で失踪した「藤田進」さん、また、千葉で失踪した「加瀬テル子」さんの顔写真が、脱北者の手によって昨年北朝鮮から持ち出され、それを分析していただいたところ「本人に間違いない」という鑑定結果が出たのにもかかわらず、我が日本政府はこの2人でさえ「拉致認定」をしてはおりません。

 また調査会の中には、「もう拉致に100パーセント間違いない」という方々が大勢おられるも、ただの1人として「拉致認定」されておりません。これ以上「拉致被害者」が増えたら困ることでもあるのでしょうか?

 先ほどお帰りになりました有本さん、松木さんのお兄さん等、10件の「拉致被害者」の再調査が行われておりますが、その方々の消息がわかり日本に帰国したら、もう「拉致問題」は終わりだと、幕引きしよう、という危惧さえ私は感じます。

 私は「拉致」は人権蹂躙で、我が国土に土足で上がり込む国家主権の侵害、という北朝鮮の重大な国家犯罪と認識しておりますが、我が日本政府は何でこの「拉致問題」に対しては、積極的に解決してくれないのでしょうか?私にはその理由はわかりません。

 今、拉致の疑いが排除できないご家族420名の方々が、調査会の方に調査依頼が出ております。私は今、拉致されているそのすべての日本人が帰国するまでは、この問題の幕引きがあってはならず、また昨年の暮れ、横田さんと松木さんの「お骨」と称するものを鑑定精査した結果、他人のものであるということが判明し、日本の多くの方々はホッとし、その反面「またウソか」という、このウソは日本政府並びに我々日本人に対する最大の侮辱であり、私は許すわけにはいきません!!小泉さんは何回騙され、何回侮辱を受ければ目が覚めるのでしょうか?

 私の田舎には「大澤孝司と再会を果たす会」というのがございまして、その会の皆さんも今回ばかりは怒りに怒り、昨年の12月29日に、我が故郷のシンボルであります弥彦山をバックにこのような大きな看板を立てて、日本政府に訴えることとなりました。

 また報道関係にも大きく取り上げていただき、今新潟の田舎の方では、再度この「拉致問題」に盛り上がっております。

 また、今年の正月2日と3日、越後国一ノ宮という弥彦神社で署名活動を行い、大勢の方々から激励ないし励ましの言葉をいただき、またたくさんの方々から署名をしていただき、私は感動して帰ってまいりました。

 しかし今の日本政府は残念なことではございますが、世論の後押し、皆さま方のバックアップがないと何もやってくれないのが現状でございます。どうか皆さま、今年こそは小泉首相に考え方を変えていただき、早急にも「経済制裁」という伝家の宝刀を抜いてでもこの「拉致問題」を解決したく、それには更なる更なる皆さま方のご支援・ご協力が必要と思い、そのお願いをし、甚だお粗末ではございますが私の訴えとさせていただきます。本日はどうもありがとうございました。(大拍手)(ページトップへ

 

斎藤健兒氏

斎藤でございます。5分間ほど頂いて「法律家の会」のこれまでの活動とですね、これから予定しています活動等をお話しさせて頂いて、ご挨拶とさせて頂きたいという風に思います。私共の会はですね、2002年の3月、先程あの、有本さんのお母さんのお話がありましたけれども、「恵子さんを自分達が拉致した」というあの八尾恵のですね、自供があった時期、弁護士の有志が声を挙げましてね、「こんなに大きな人権侵害があるのに弁護団を持ってないってのはおかしいじゃないか」とこういう事を言い出し始めまして、最初に集まった4人が今日のこの会の幹事になりました。2002年の3月ですから、その年の9月に第1回の小泉訪朝があった年ですが、丁度9月にですね、シンポジウムを弁護士会でやろうと、それを機会に会を立ち上げようじゃないかという事でまあ、横田さんとか佐藤会長とかですね、皆さんとご相談を持っていた段階で例の日朝交渉が入るという事で、当面様子見になったんですね。まあそんな中で、特定失踪者会の立ち上げが翌年の1月、3月に私共の会が結成されたと、こういう経過でございます。現在、全国で30名弱の弁護士が活動しています。で、やって来た事はですね、1つは先程420名と言われました特定失踪者の方の中で1000番台と言われる32名の方ですね、この方々について1人を除いて一斉告発を、告発の代理人を、まあ我々弁護士が引き受けると。で、この問題については昨年の9月ですか、警察庁で初めての拉致の担当者会合が開かれてですね、警察も総力を挙げてこの捜査に当たるという様な号令が掛かっている状況です。捜査の現状はまあ、それぞれの事件で濃淡ある様ですが、まあそんな事でやっている。もう1つは、第1次一斉告発の際の16名について、日本弁護士連合会の人権擁護委員会にですね、救済の申し立てというのを行っております。これは何かと言いますと、弁護士会として警察に対して厳重捜査を遂げさせると、そういう勧告を出して欲しいと。それから政府に対してはですね、北朝鮮に対して、これを拉致被害者として認定してですね、原状回復を求めると。そういう政府に対する対応を求める、日弁連としての勧告書を出して欲しいという申し立てをやっております。で、これは今年、出来るだけ早い時期にですね、日弁連としての結論を出させるべく取り組んでいるという事であります。もう1つの大きな柱としては、シンポジウムを3回、この間、行って参りました。焦点は北朝鮮の強制収容所問題です。この問題について、カンチョルファン氏とかですね、アメリカの北朝鮮人権委員会のデビッド・ホーク氏とか、一緒に合流して頂いて、シンポジウムを行って参りました。そういう中で私共はやっぱり、納得したというか確信するのはですね、日本ではこの、100人を越えると言う拉致被害者がおりますけれども、北朝鮮の、当の北朝鮮では、本当にこう日常的に拉致が行われていると言いますかね、本当に理由もない、理由も告げられずに裁判も行われずに、どんどん強制収容所に送られ、そういうこう、非常にこう非人間的な世界というのも大いに存在している。そういう根っこがあるからこその日本人の拉致被害なんだ、という事を改めて確信致します。

まあ同時にこれから私共が考えている活動ですが、先程の32名の1000番台の中で1人だけまだ告発が出来ていない、布施範行さんという方がいますが、この1月末に山形県警に告発するという事で準備してます(1月31日にご家族が告発状を提出、2月7日に山形県警はこれを受理した)。それから、先程の日弁連の人権委員会ですね、この問題について勧告を早急に出させるというのがもう1つの大きな柱です。それから、先程お話のありました、よど号の、有本さん・松木さん・石岡さんですね、こういった方々の、まあ民事・刑事の、何らかの法律家としての手立てはないのかというお話が前から上がっておりまして、その問題についても法律家の会としてきちっとご相談に乗るべきではないかという事で、動こうとしております。それから去年、先程お話のあった大沢さんの問題でですね、佐渡で現地調査なんていうのを行いました。弁護士、法律家の会の弁護士とか一般の方のご参加で30人程度だったと思うんですが、曽我ひとみさんの問題、大沢さんの問題ですね、現地で、調査とまで言えたか、なんですが視察を行いました。今年また5月にですね、今度は鳥取の米子で松本京子さん、荒木さんが現場を中心にですね、もう1回そういう企画をやろうではないかという事で準備が進んでおります。失踪者問題調査会の方では、鳥取と島根だけで10人を超す失踪者がいると言われております。また企画が具体化しましたら皆さんにもご案内を差し上げたいと思いますので、宜しくお願いしたいと思います。今年、調査会の荒木代表から年賀状が来まして、今年は一発やるという力強い言葉がありました。私も、まあ皆さんもそう思われると思うんですが、今年はやっぱり、大分この北朝鮮の拉致問題というのが条件が詰まりに詰まりつつある。6カ国協議もですね、このままだらだら今年も続くという事はあり得ないでしょうし、まあ経済制裁の世論も75%を超える、75%というのは我々の表現で言うと絶対多数ですね。そういう世論に従わない政権というのは持たないと言われる様な数字にまでなっている。そういう意味では日朝協議もですね、今年は局面の転換が大いに図られる可能性が迫っていると。個人的にはやっぱり、こんな大きな問題がですね、あの映画の「風とライオン」とかですね、あの、レバノンですか、(聴き取れず)とかありますけれども、これだけ長い間、外国に拉致されたという事実が分かっていながらですね、何年も解決が出来ない、これはやっぱり国家として恥ずかしいし、まあ国民としてもですね、恥ずかしいという風に個人的には思ってます。まああの、直接の当事者でないもんですから、普段の生活の中でしょっちゅうそれを考えてる訳じゃありませんけれども、やっぱりそういう思いを思いとしながら、我々の会も全力を今年は挙げたいという風に思います。宜しくお願いします。(ページトップへ

 

 

 

松木信宏さん、大澤茂樹さんのお話はaoinomamaさんのテープ起こし、
有本ご夫妻、萩原遼さん、斎藤健兒さんのお話はヘソ伝ファンさんのテープ起こしによります。

電脳補完録
aoinomamaさんのHP